2012年02月08日

節分ご案内 報告

23日、節分案内を行いました。
雪が舞う底冷えの前日とはうってかわり、すっきり晴れて暖かい日になりました。


聖護院で集合し、まずは須賀神社へ。
この聖護院から吉田神社辺りにかけてはたくさんの人で賑わっています。

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須賀神社では今はもう有名になった烏帽子に水干姿の「懸想文(けそうぶみ)売り」

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梅の枝に懸想文を結んでいます。
 

本殿にお参りします。
右が須賀神社。左は交通神社です。
 

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須賀神社は、鳥羽上皇の中宮・美福門院得子の御願寺、歓喜光院の鎮守社として創祀され、
東天王社にたいして西天王社と称した歴史があり、須佐之男命、櫛稲田比売命が祀られています。 

そして昭和39年に須賀神社から分祀し、創祀されたのが、左の交通神社。
久那斗神(くなどのかみ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)の御祭神は道が八つにわかれる衢(ちまた)の神で交通の要衝を守るとされます。

堤先生に昨秋の講座で教わったとおり、今年は、『古事記』が成立して
1300年とのことから、この三座のお話をさせていただきました。
 

もともと当社は旧聖護院村の産土神(うぶすながみ)。
毎年510日に行われていた「角豆祭り(ささげまつり)」は、角豆に多くのさや豆が生まれるごとく子孫繁栄を願っての祭りでしたが、今は節分の「懸想文売り」にとってかわりました。

長い時間を経て、土地の産土神を祀る神社から、季節を司る祭りや、祭神を分祀し本来の祭神を祀る神社への移行には、現代に適った役目を負う決意が表れているといえます。
 

懸想文売りが覆面をしているわけを聴いたり、懸想文は鏡台や箪笥にしまっておくと美人になるとか良縁がくると聞きました…。

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数年前から売られているという須賀多餅もおいしそうです…。

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         求肥にくるまれた柚子風味と梅風味


そしてこの木が角豆(ささげ)の木です。

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さて須賀神社を出てお辰稲荷へ。

お辰稲荷神社は、江戸時代、東山天皇の女御・新崇賢門院(しんすうけんもんいん)の霊夢によって創祀された神社。

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宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦神、天宇受売神を御祭神としています。

琴の上手なお辰狐を祀るといわれ、江戸庶民の信仰を集めたお社。

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さて、歩道橋を上り、丸太町通りをわたりました。
(誰かさんなら上れなかったでしょう。でも全然怖くないですよね!)

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気持ちいいですね。
前方は東山の山並み。右手の塀は平安神宮。
ちょうど、美福門院の歓喜光院があった辺りでしょうか。 

丸太町通を南に折れ、岡崎道へ。


岡崎道西北の交差点には小沢蘆庵(江戸時代中期の歌人)旧宅で、また蒲生君平(江戸時代後期の儒学者。寛政の三奇人のひとり)の旧宅でもあった碑が建っています。

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岡崎道から平安神宮の塀に沿って西へ。

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向こう側中央に見えているのは京都市美術館。
手前のグラウンドは鳥羽天皇の御願寺、最勝寺の跡。そして美術館の辺りは鳥羽天皇中宮・待賢門院璋子の御願になる円勝寺があったところ。


平安時代末、この辺り一帯は、正確には北白河と呼ばれていました。

白川をはさんで南側は南白河と言ったのだそうです。
北白河は貴族が住み、六波羅を中心とした南白河は武士が住んだところであったそうです。 

さて、平安神宮に着きました。

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ここで平安朝当時の「追儺式」が再現され、「大儺の儀」が執り行われます。

碧の瓦や社殿の朱色が鮮やかです。

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いよいよ大儺の儀(だいなのぎ)が始まります。


東の方から上卿(しょうけい)・殿上人(でじょうびと)が童(わらわ)をしたがえて入場し、五位・七位の儺人(なびと)が続きます。
西の方からは、陰陽師(おんみょうじ)が6人の斎郎(さいろう)をひきいて入場しました。 

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儀式をつかさどる陰陽師が独特の歩き方で版の前に進み、祭文(さいもん)を奏上。

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祭文の途中で黄金4つ目の面をつけた大舎人(おおとねり)の方相氏(ほうそうし)がシンシ(子どもの所役)8人をひきいて入場。
 

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上卿が中央に進み、北東と北西に向かい桃の弓で葦の矢を射ます。

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殿上人が同様に桃の杖で、北東・南東・南西・北西と四方を撃ちます。
 
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方相氏は常人の倍の眼力で睨み、矛と盾を打ち鳴らし「鬼やらう」と発声しながら、斎場の周囲を3度廻ります。

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後にはシンシと儺人(なびと)が「鬼やらう」と発声しながら続きます。
応天門でも同じ儀式が行われました。
 


つぎは鬼の舞です。

大蔵流、茂山社中扮する邪鬼たちが応天門より侵入してきました。


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境内をわが物顔で暴れます。

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大極殿まで占拠したようです。
ここで得意げに舞を舞っていますが…。

やがて市民代表の撒く打豆によって退散!


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そのあとは楽しい豆撒きが始まりました。

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みなさん、たくさんキャッチできたようです。
 


さて平安神宮を後にして─。

いつもは観光バスの駐車場ゆえ、バスに隠れてみなさんあまりご存じないですが…

京都守護職屋敷の門
にきました。


現在の京都府庁付近にあった京都守護職屋敷の門の一つを
明治32年(1899)前後に現在地の旧武徳殿前に移した立派な門です。

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旧武道専門学校最後の校長であった鈴鹿野風呂の句碑
            「風薫る左文右武の学舎跡」

旧武徳殿は、桓武天皇が武技を奨励するために東西に置いた武徳殿に由来しています。

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いまは北側に武道センターが建っています。
 

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ちなみに京都府庁の敷地内には幕末におかれた京都守護職屋敷跡の碑が建っています。


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               京都府庁 上京区下立売通り釜座



疏水を西側にわたり、京漆器の老舗、象彦へ。

まずは代々伝わる雛人形や、それに付随する見事なミニチュアのお道具の数々を見学。豆粒ほどのお道具が実に精巧にできていました。


展示場では、漆の木地の薄さに驚いたり、塗りの種類を教えてもらったり、漆の意外な性質に耳を傾けました。日本古来のものですが、知らないことばかりです。
圧巻は蒔絵の筆の秘密でしたね! 

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あっというまに時間が過ぎ、節分案内は解散とさせていただきました。

節分を越えると、まだまだ寒さは厳しくとも一歩ずつ春に向かいます。


春にはまた皆様とご一緒に町を歩いてみたいと思います。

その折にはどうぞよろしく!
京都・清遊の会では皆様のご参加を心よりお待ちしております!
   
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2012年01月09日

新春特別講座 報告

17日、堤講師の新春特別講座「続・堤流 京都の学び方」が開かれました。

たくさんの方にお越しいただきました。
満員御礼です!
ありがとうございました!

講座は、始まる前から今日はどんなお話が聴けるだろうという皆さんの期待でいっぱいに感じられました。

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まずは昨年暮れにホームページ上で堤講師が出題された清遊クイズを、解答していただきました。

答えは次のとおりです。

神社編
@御辰稲荷神社、宗旦狐、相国寺
A車折神社、富岡鉄斎、冨田渓仙
B瀧尾神社、大丸百貨店、下村家

人物編
C辰野金吾、伊東忠太
D黒田辰秋、上賀茂民芸協団
E林屋辰三郎、女性史

みなさんのお答えはいかがでしたでしょうか?

堤講師の解説は、一枚の画像から話がどんどん広がります。

聴いているうちに、いつも講師がおっしゃっているように、知識が点から線へとつながり、線から面へと形を変えてゆく面白さを実感できました。

難解に思われた答えですが、丁寧な説明のおかげでなるほどと受け入れることができました。

そして、講師が実践してこられた京都理解の秘訣を伝授。


最後に、講師が日本宗教の三大巨人と考える、空海、道元、そして大本教の出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)の、
今、京都府亀岡市で開かれている展覧会「亀岡で生まれた美と歴史 出口王仁三郎一門展」を紹介されました。

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「芸術は宗教の母」との思想を打ち出した出口王仁三郎の信念と、そして魂が震えるような素晴らしいその芸術について熱く語っていただきました。


堤講師はいつも新たな提案をしてくださいます。
そして講義を聴くたび新鮮な驚きがあります。

ただ伝えるだけではない何か。
講師の魅力はどこからきているのでしょう。

学問にたいする真摯で謙虚な姿勢。
そして自身が感動した事柄を私たちに率直に語ってくれること。

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わくわくしながら京都を学ぶ、私たちもかくありたいと思います。

講座を終えて―

堤講師が「こんな歌ができました」と、教えてくれた歌があります。
こっそりご紹介します
(笑)
  

  新しき血の混じりたる宗教(おしえ)ほし
    空海
道元 王仁三(おにざ)はいづこ 
 

過去の歴史を語るのみならず、現在を見据え、そして未来への提言を発する堤講師に脱帽です。


堤先生へ
これから手術を受けられるとのことですが、
京都・清遊の会の皆さんとともに、一日も早くお元気になられるよう祈って、また先生の講義が聴ける日を首を長くして待っております!
素晴らしい講義をありがとうございました
!
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2011年12月08日

顔見世講座 報告

123日、井上由理子講師による「京都顔見世講座」が行われました。「顔見世講座」は昨年に続いて第二回目。 

お話は出雲の阿国が京都・四条河原でおこなった「かぶき踊り」から始まり、
遊女かぶき、若衆かぶき、野郎かぶきを経て現在の歌舞伎に続く流れ。

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  鴨川沿いにたたずむ阿国の像(川端通四条上ル)

そして南座の歴史などなど。先生の資料のおかげで初めて「やぐら」の興業についても知りました。


今年は南座の大改装から20周年で、緞帳が新調されましたが、幕ひとつとっても深いものですね。まねきや竹馬についても貴重な話をうかがいました。
 

後半は、演目について。舞台となった風景などを紹介しながら今年の見どころを。

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芸能通の先生だけに、芝居の中身が熱く語られ、思わず話に引きこまれてしまいます。

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なるほど!
顔見世に行く前に先生のお話が聴けて、お芝居の展開、見どころ、聴きどころがよくわかりました。

皆さんまた楽しみが倍増したようです。 


井上先生の「顔見世講座」ぜひ来年も聴かせていただきたいです。ぜひお楽しみに!
そして今年の顔見世を観覧予定のみなさま、いってらっしゃい!



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2011年12月02日

鷹ヶ峰界隈を歩く 報告

11月19日、鷹ヶ峰の三つの寺院を訪ねました。
鷹ヶ峰は、京都市内の北方に位置し、三ヶ峰(天ヶ峰・鷲ヶ峰・鷹ヶ峰)を望む静かな土地。
江戸の始め、本阿弥光悦が徳川家康から土地を与えられ、一族・縁者ともに移り住み、芸術村をつくったといわれますが、
光悦をはじめ、ここに住んだ人々は皆、熱心な法華宗の信者であり、信仰によって深く結びついておりました。

鷹ヶ峰街道の坂道を上ると、突き当たりが「源光庵」。この一角に、今回訪ねるお寺群が並んでいます。
(当日も含めて写真の撮影日はさまざまです。)

まずは、圓成寺(えんじょうじ)へ。

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通称を岩戸妙見宮(いわとみょうけんぐう)といい、目の神様である妙見様をお祀りされていますが、
山号を清雲山、寺号を圓成寺という日蓮宗の寺院でもあります。

当日は朝からあいにくの雨。
午後になり、妙見さんに着く頃にはすこし明るくなってきました。
妙見宮は古代の古墳をそのまま利用したもので、前室が拝殿、玄室が本殿となっている見るからに不思議な建物です。
本尊は妙見大菩薩。妙見大菩薩とは北極星と北斗七星を神格化した菩薩のこと。
その姿は亀の背に乗り、右手に剣、左手に蛇を持ち、頭上に北斗星を戴いておられます。
眼光は鋭く、犯しがたい厳しさのなかにも慈愛に満ちておられます。
妙見大菩薩は別名、玄武神とも、また道教にいう泰山府君の別名として鎮宅霊符神とも呼ばれます。

妙見宮の歴史は桓武天皇による平安遷都に遡ります。
遷都にさいして、内裏の四方に妙見大菩薩を祀り、王城鎮護を祈願する官寺が建てられました。
それが霊巌寺というお寺で、現在の五山の送り火の一つ、舟形で有名な船山の南麓にあったと伝えられています。

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江戸時代になり、本満寺の日任(にっとう)上人がこの地に復興、妙見霊場とされました。
妙見宮では毎月、一日と十五日に開扉され、ご本尊を拝むことができます。

境内をまわり、住職の代替わりに際して姿を現すという白蛇を祀る白雲弁財天、
痔の神様として著名な秋山自雲霊神(しゅうざんじうんれいしん)、
この寺が修行の寺であることを示す巌門(いわと)の滝、
築城の達人として知られる加藤清正公が勧請したという大黒天像、
さらに江戸時代の儒者で千宗旦四天王と呼ばれる弟子のひとりである三宅亡羊(みやけぼうよう)の墓などを見学しました。

今年は暖冬の影響で京都の紅葉はいまひとつ見どころに乏しいなか、ここの境内は見事な色づきを見せており、
境内の緑の苔に映え、雨の滴がしたたり、実に素晴らしい佇まいでした。これは実際に行った方でないと味わえないものです。

圓成寺の本堂では、本尊日蓮上人像と両側に鬼子母神尊像、大黒天尊像が祀られています。
ここは本当に不思議なところなのですが、皆さんが一番驚かれたのは
実は山門をはいってすぐ目にする「絵馬」でした。
長い年月のなかで完全に剥落し判別できなかった絵馬が、二条城の障壁画修復にも携わっておられる日本画家の大野俊明氏が修復を依頼され、
調査の結果苦労して復元した新しい絵馬を掲げると、なんと隣に掲げられていた古い絵馬に七福神が描かれた当時の姿が浮かび上がるという奇瑞が起こりました。
当時新聞にも紹介され話題を呼んだ出来事に皆さん興味津々のご様子でした。


その後、山門入口の台杉の話などしながら一行は圓成寺を後にし、源光庵へと向かいました。
圓成寺境内の写真撮影はできませんので、じっくり拝観されることをお勧めします。
妙見宮の北極星・北斗七星をかたどった紋をご覧ください。

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源光庵のお向かいにはナマコ壁が見事な遣迎院があります。
廬山寺、二尊院、般舟院と並んで御所の仏事を司った黒戸四ヶ院の一つで、
もともとは伏見にあり、京都御所の東、現在京都府立医科大学の図書館がある場所に移りましたが
明治四年の上地令により京都の著名な道具商土橋嘉兵衛の別荘地であった現在地に建物ごと買い取って移転しました。

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ここは浄土真宗遣迎院派の本山となっていますが、いわゆる本願寺系の浄土真宗ではなく比叡山延暦寺の天台浄土宗系のお寺です。

このお寺の末寺に血天井で知られる、今年の大河ドラマの主人公お江ゆかりの養源院があります。境内の雰囲気が似てますね。
建物は由緒あるもので、本堂は岡山藩の家老であり茶人でもあった伊木三猿斎(いきさんえんさい)の屋敷でした。
本能寺の変に際して播州三木の高松城を攻めていた秀吉が、報せを聞いて毛利輝元と和睦を行った由緒ある建物です。

本尊は発遣(ほっけん)の釈迦と来迎(らいごう)の弥陀を祀る、いわゆる二尊本尊で、二河白道の教えを説くものです。

このうち阿弥陀如来像は近年の修復に際して大発見がなされた仏像で、台座に嵌める臍(ほぞ)の墨書きから「安阿弥」の名が見つかり、この仏像が快慶作であることが判明したのみならず、残された胎内文書73枚には合計1万2千人におよぶ人名が記され、それらが源平の合戦で亡くなった武者たちの名前であることがわかりました。中には栄西や慈円などの著名な僧侶の名も記されており、源平合戦の戦死者を供養するために造られたことがわかったのです。

通りに面して何気なく佇むお寺ですが、京都のお寺は侮れない! のです。

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さて源光庵に入ります。

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                          (12月2日撮影)

このお寺は日蓮宗の寺院が立ち並ぶ鷹ヶ峰の中にあって、禅宗、しかも京都では珍しい曹洞宗の寺院です。
しかし元々は大徳寺派の臨済宗寺院でした。それがなぜ今、曹洞宗になったのでしょう。

このお寺は血天井と丸と四角の二つの窓が観光の目玉となっていますが、お寺の本当の姿は決してそれだけではありません。

京都・清遊の会では、見逃されがちなお寺の歴史や魅力を紹介することを第一に考えています。そのためには是非ご参加いただき、実際にその場に立っていただきたいと願っています。
こうしたブログでは決して紹介できない素晴らしさと京都の奥深さを存分に味わっていただきたいのです。


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さて、このお寺が臨済宗から曹洞宗に代わったのは、中興といわれる卍山道白(まんざんどうはく)が入寺したおりに、ときの宗門の決まりに逆らってまで自分が受け継いだ道元の法を伝えなければという強い決意を表わしたからなのです。
当時は寺に伝わる「伽藍法」と人に伝わる「人法」の二つがあり、曹洞宗は伽藍法を採っていました。このお寺は臨済宗のお寺ですから、卍山がここに入るには曹洞宗を棄てて臨済宗に改宗しなければならなかったのですが、卍山は自分が受けた道元の禅こそ至高の禅という自負があり、宗門の慣習を破って自分が継いだ「人法」を採ったのです。山門に刻まれた「復古禅林」の由来です。


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現在、本堂裏に隣接する開山堂に座す卍山の像は、何者にも惑わされない不退転の決意を秘めた鋭い眼光を見せています。

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さて、一行は二つの窓の前で、窓の説明もさることながら、脇床に置かれた卍山の偉業を顕彰する石碑を乗せた龍が生んだ九匹の子供(龍生九子)の一つ、「贔屓(ひいき)」の話を聞きました。

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亀だとばかり思っていたのに、立派な耳を持つこの奇妙な生き物が「贔屓役者」の語源になったと知りましたね。

その後、書院の襖絵の作者、山口雪渓についての話を聞き、その名前の由来に驚くとともに、先ほどの卍山顕彰碑の本歌が置かれた庭の素晴らしさを堪能しました。
 

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この頃になると雨も上がり、一行は常照寺へと坂道を下りました。
寂光山常照寺。立本寺派の日蓮宗寺院です。

このお寺も吉野太夫という世紀の芸妓の陰に隠れ、また花供養で知られる春の桜ばかりが有名ですが、深い樹木に覆われた見事な境内や、日蓮宗寺院ならではの刹堂など見どころ溢れる魅力寺院です。

まず参道入り口で説明です。
ほとんどの方が見逃して通り過ぎる石碑の台座に「檀林」のニ文字が。

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                 (12月2日撮影)

ここはかつて山城六檀林と呼ばれた日蓮宗の僧侶育成機関である檀林のひとつ、鷹ヶ峰檀林の地なのです。山城六檀林の場所や内容など詳しいレジュメをもとにひとしきり説明を聞いた一行は、吉野太夫寄進とされる朱塗りの門をくぐって境内へ。

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                          (12月2日撮影)

吉野が名妓であったことにちなみ、女性の帯を供養する中根金作氏作庭による「帯塚」や京都の日蓮宗寺院にはお馴染み、見事に咲いた「お会式桜」の可憐な花びらなどを愛でつつ、

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日蓮宗寺院独特の鬼子母神堂(もちろん鬼の字は上の角がありませんね)、

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地主神を祀る常富堂と順に見学し、吉野ゆかりの茶室「遺芳庵」、日乾上人を祀る開山堂、その裏に今も香華が絶えない吉野の墓を拝観しました。
遺芳庵は当日は閉められていましたので写真でご覧ください。

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  釜には富岡鉄斎筆「遺芳庵」の文字が鋳込まれています

「都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山にうつして」とまで慟哭し、妻の死を悼んだ夫・灰屋紹益の墓に入らず、敬愛する日乾上人の側に眠る吉野。

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夫の墓は本寺である立本寺にあります。

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                  立本寺 灰屋一族の墓

そんな二人の隔てを惜しんだ比翼塚など近年建てられた新たな見どころを回り、本堂にお参りしました。

ご本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏と十界曼荼羅。

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その前に安置された日蓮上人の像はお会式(おえしき)中であり、真っ白な綿帽子を被っておられます。
この綿帽子は各寺院によって違いますが、小松原の法難の故事をもとに眉間を割られた血を意味する赤やオレンジの色を重ねるものもあれば、当寺のようにお寒くないようと老婆が差し出した真綿を示すものもあります。

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新しく作られた客殿にはここが檀林の地であることを示す本阿弥光悦による「学室」の扁額が飾られ、滅多に見られない文化財を拝見することができました。


朝から雨となり、傘をさしての見学と覚悟した出発でしたが、途中から雨があがり、常照寺を出た一行は、ここで一応解散とし、バスで帰る人、さらに鷹ヶ峰街道を下り、「しょうざん」庭園から金閣寺への道を同道する人など思い思いに分かれました。

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                      (12月2日撮影)

「しょうざん」への坂道から見る、雨上がりの霧に覆われた鷹ヶ峰の山容は紅葉の彩りに加え夕刻の幽邃な雰囲気をたたえてそれはそれは見事な景色です。本当に一人でも多くの方に見ていただきたかった光景でした。

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ここ、鷹ヶ峰の地は、冒頭にご紹介しましたように本阿弥光悦という稀代の文化人ゆかりの地です。今回は拝観しなかった光悦寺は光悦の屋敷跡であり、その位牌堂を没後に寺としたもの。光悦は江戸時代を通じてわが国を代表する芸術の巨人です。

この地は光悦を初めとする本阿弥一族が結集し、文化芸術活動を行うとともに、一族の宗旨である日蓮への憧憬、そして法華経への帰依に生きた信仰の地でもあります。
紅葉の鷹ヶ峰として有名な京都屈指の観光地ですが、ここの紅葉は単なる秋の彩りではなく、芸術一族本阿弥家の題目の声を聞いて育った信仰の紅葉でもあるのです。

当日は圓成寺のご住職、常照寺のご住職からもお話をうかがうことができ、やはりこの地が信仰の地であるという思いを強くいたしました。

清遊の会は今後も上質な京都のご案内を提供してまいります。ブログやレジュメだけでは決してお伝えできない、現地ならではの醍醐味を是非ご堪能ください。

最後に、今回の鷹ヶ峰訪問も堤先生から資料その他数々のご教示をいただきました。感謝してお礼申し上げます。


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2011年10月20日

和菓子の会を終えて

1013日、京都・清遊の会では和菓子の会を開きました。

講師は和菓子研究家の井上由理子さんです。

井上先生による和菓子の会も早5回目を迎えましたが、
今回のテーマは「京の行事と和菓子」。


まず前半は行事にちなんだ和菓子の数々を、画像を見ながら解説していただきました。

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京の和菓子はお祭りや行事のなかで、宮中や社寺、あるいは茶家と深いかかわりを持ちつつ育まれてきました。

たくさんのお菓子を挙げていただきました中から一部をご紹介いたします。


平安時代より、禁裏では陰暦十月の亥の日に御玄猪
(おげんちょ)の儀式が行われていました。

写真は川端道喜に伝わるその御玄猪の餅の復元。餅は宮中に仕える人に下賜されましたが、官位によって餅の色や数が決められていたそうです。

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十月の亥の日の亥の刻に餅を食べると息災に過ごせると言われたとか。

これから迎える冬にそなえて、猪を食していたのが餅に替わったという説もあり、猪は多産であることから子孫繁栄への願いにもつながるようです。


写真は現在の川端道喜の「亥の子餅」。亥の子餅は、五節句と同様、宮中の年中行事が都の人々の歳時に取り入れられてできた菓子のひとつ。
茶道では炉開きのお菓子となり、町衆の生活のなかでは炬燵開きの頃に食べるようになりました。

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当日は、左京区山端
(やまばな)の双鳩堂の「亥の子餅」をいただきました。双鳩堂は三宅八幡宮に鳩餅を調進しているので知られます。

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この亥の子餅は、京都にたくさんあるいわゆる「おまんやさん」のお菓子ですが、黒胡麻や松の実が入っていて、肉桂(にっき)の風味がきいて、やわらかく、本当においしいです!

亥の子餅は猪の子の瓜坊の姿を表わしています。いまでは亥の子餅はポピュラーなものになりましたが、考えてみると動物の形を和菓子に映すという珍しい意匠ですね。


次は菊のお菓子を。
九月九日の重陽
(ちょうよう)の節句には、菊花に前夜から綿を被せて菊の香りと露を含ませ、その綿で身を拭うと不老長寿を得られるという言い伝えがありました。
菊の色と上に被せる綿の色には決まりがあります。

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この時分のお茶会によく出される「着せ綿」
(きせわた・二条若狭屋)

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京都では月見に供えられる「月見だんご」は小芋
(里芋)を模したもの。餡は小芋の皮に見立てています。

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秋の豊作に感謝するお火焚き祭の菓子「お火焚き饅頭」は商売繁盛や家内安全の願いも込められます。
後ろは節分の頃の「大豆餅」(ともに出町ふたば)

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七夕につくられるお菓子「星のたむけ」
(亀末廣)

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節分にのみつくられる「法螺貝餅」
(柏屋光貞)

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行事ではありませんが、婚礼のお菓子。

昔は引き出物には「お嫁さんのおまん」と言って大きな薯蕷饅頭などが普通でしたが今はその風習もほとんどなくなりました。

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お正月や初釜に出される薯蕷饅頭。
写真は「根引きの松」
(花子)

031-1.根引きの松・花子_R.JPG


お正月といえばお話は来年のお菓子にも及びました。来年の干支は「辰」御題は「岸」。和菓子屋さんにとって干支菓子や御題菓子を創作するのは大切な仕事だそうです。

今頃は来年のお菓子を思案しておられる頃だそう。来年どんなお菓子が私たちの前に登場するのか楽しみですね。


席を移して、後半にいただいたのは、白からほのかなピンク色
へと染められたういろう生地の「まさり草」。まさり草は菊の異名です。

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先ほどの亥の子餅の粒餡に対して、こちらは珍しい白小豆の粒餡。

さすがに井上先生が紫野源水の御主人と相談して注文下さったお菓子です。

美味!だったのですが、こんなに美しいお菓子、もったいなくてすぐには食べられませんとお持ち帰りになる方もありました。


今回は、井上先生からみなさんに楽しいクイズが出されました。

その一つ、次の写真は京都のある菊をイメージしてつくられたものですが、なに菊でしょうか?地名が入ります、というもの。

答えは「嵯峨菊」(鶴屋吉信)でした。

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他に、今宮神社のあぶり餅のタレのポイントとなる調味料は?など、皆さんには5つの問いに答えていただきました。

そして全問正解者のなかからじゃんけんで勝った2名の方に井上先生から素敵なプレゼントがありました。

皆さん真剣にクイズに取り組んでいただいたり、回答時には歓声が上がったり、今回はとても賑やかな和菓子の会となりました。
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井上先生、まさに他では聞けない和菓子のお話の数々をありがとうございました。

また次回はどんな趣向となりますか、皆さま、どうかお楽しみに!

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2011年10月13日

紫野・西陣界隈散歩報告

10月1日、「紫野・西陣散歩」を行いました。

昨日の雨はやみ、風はまだ強かったのですが、どうやら晴れて散歩日和となりました。

今日の資料は堤先生が準備してくださったものです。

皆さんにちゃんとお伝えできますかどうか不安ですが…。


まずは大徳寺前の雲林院境内で、今日のルートの略図を見ながら、紫野、船岡山について簡単にお話しました。

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略図.JPG 
           史跡ウォーク「紫野」より


紫野とは─

洛北七野の一つ。船岡山から大徳寺周辺一帯を指します。

延暦14(795)10月、桓武天皇がはじめて紫野で狩猟を行われて以来、天皇の遊猟地となり、やがてこの地に離宮・紫野院を構えられたのが淳和天皇

そして堤講師より、この紫野こそが「山紫水明」の原点であるとご教示いただきました。
「山」は比叡山、その比叡山が紫色に見える所がこの紫野であると。淳和院はこの聖なる山を仰ぎ見つつ、この紫野で遊興に過ごされたのだそうです。
写真は船岡山の公園から望む比叡山です。

比叡山.JPG 

         

船岡山(ふなおかやま)

紫野の広野(こうや)に横たわる高さ112メートルの丘陵。いまでは想像もつかないことですが、山の東麓に大池があり、山の東端が岬のように池中に突き出し、あたかも海に浮かぶ大船のようであったことから船岡山と名付けられました。

山の東端は、岬をあらわす唐崎の転訛から「からすき」、また鼻は端をあらわすとし、古来「唐鋤鼻(からすきのはな)」と呼ばれたそうです。

淳和天皇の紫野院はこの船岡山の東の池を景として取り入れたものでした。

ちなみに昭和初期まで「六兵衛池」と称する古池が残っていたそうです。


なにより今日の案内で忘れてはならないことは、
この船岡山には玄武大神が祀られており、平安京造営にあたり、起点とされたということです。

雲林院についてはブログ「紫野で」をご参照ください。


ここで、時代は飛んで中世へ。

弁慶の腰掛け石、常盤井、若宮八幡宮を訪ねます。


若宮八幡宮
は、土蜘蛛退治の話で知られる源頼光の屋敷址と伝わります。源頼光は日本における武士の祖とされる多田満仲(ただのみつなか)の子。それゆえここが源氏ゆかりの地とされ、清和源氏の祖である清和天皇を祀り、源氏の棟梁となった源義経の故地とされ、その母常盤御前の伝承地となったものと思われます。

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               若宮八幡宮 外観

常盤は近衛天皇の雑仕女を決める際、全国から選ばれた美女千人の中からさらに選ばれた美女。古来この地に住んだという伝承があり、付近には写真の
常盤井や常盤地蔵、あるいは牛若井や牛若町など常盤や義経ゆかりの遺物が残っています。

常盤井.JPG 
              常盤井

とくに牛若丸と弁慶が出会った五条の橋は「御所の橋=護浄の橋」という説があり、この御所は淳和天皇の離宮であった紫野院であり、その橋こそ現在の大徳寺東南角にあったとされ
鞍馬山で修行した牛若丸は、山を降りたとき、母に会うためこの地を訪れ、ここで弁慶と出会ったといいます。このとき橋を渡る牛若を腰かけて待っていたのが弁慶腰掛けの石というわけです

弁慶腰掛の石.JPG 
弁慶の腰掛け石 船岡山の岩盤と同じチャート岩。

太古の昔ここが海の底であったことが知られます。

 

さて、いよいよ
玄武神社へ来ました。


現在は
惟喬親王(これたかしんのう)を祀っています。
しかし、もともとは王城鎮護の北の守り神・
玄武大神を祀ったもの。玄武神社の鳥居は南に、つまり御所に向いています。船岡山にやはり南向きに祀られている船岡妙見社こそ、この玄武大神の原形なのですね。堤先生からでなければ教われなかった貴重なお話です。


かつて行われていた紫野御霊会は、ここで現在四月に行われている
「やすらい祭」へとつながっています。

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                玄武神社 外観

                  

この近くにある、小野篁と紫式部の墓所について─。


惟喬親王はのちに洛北大原の里・小野に隠棲されたと伝わりますが、その地は近江の小野へと続く小野氏本貫の地でありました。京都には小野という地名が他にもあり、雲ヶ畑や大森などに惟喬親王の伝承が残っています。


小野宮と称されたという惟喬親王を祀るこの玄武神社の近くに小野篁の墓があることもやはり関わりのあることであろうと先生はおっしゃっていました。


惟喬親王に仕えたのが後世、僧正遍照ら六歌仙と呼ばれる人々。惟喬親王の無念をおさめるために歌仙として祀られた人々です。そのなかには小野篁の子孫の小野小町や在原業平も名を連ねています。


紫式部のお墓の横に小野篁のお墓が祀られている理由については皆さんよくご存じでしたが、
南北朝時代に著された源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」巻一によれば、「式部の墓所は雲林院の白毫院(びゃくごういん)の南にあり。小野篁の墓の西なり」(原漢文)とあって、比較的古くからの言い伝えであったようです

各地に伝承が残り、多くの人々に慕われたという悲劇の惟喬親王─。

いずれ堤先生にぜひ惟喬親王についてお話をしていただきたいと思います。


玄武神社をあとに、大宮通りを南へ下がります。


安居院
(あぐい)西法寺です

安居院西法寺.JPG

もとは
比叡山延暦寺東塔竹林院の里坊。

安居院(あぐい)はこの付近一帯の呼び名、現在も残っています。


この寺に伝わるのが
人々を惑わす物語を書いた罪で地獄に堕ちた紫式部を供養するための文章「源氏物語表白(ひょうびゃく)」。安居院法印聖覚(あぐいほういんせいがく)の作になるもので、式部供養の詞が述べられています。やはり、この近くに式部の墓所があるゆえに伝えられたもののようです。


廬山寺通り、鉾参通りを過ぎて、寺之内通りの西陣織工芸美術館「
松翠閣」にやってきました。

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                 松翠閣 外観

ここは西陣織の技術を駆使して織られた作品が展示されている美術館。素晴らしいの一言です!

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松翠閣4.JPG

とくに畜光糸(ちっこうし)という特殊な糸で織られた作品は、照明によって不思議な見え方をします。ぜひ一度ごらんください。
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松翠閣で超ゴージャスなものの数々を見て息抜きです。とってもいい気分になりました
(笑)。


ここで
寺之内通について少し─


豊臣秀吉は天正1819の両年、強権を発動して散在する寺院を洛中市街地からことごとく立ち退かせ、東京極通の東側と安居院の一帯に集め
ました。東京極通にできた寺院街が寺町で、安居院の寺院街が寺内。

一般町衆の強い信仰があった浄土宗寺院や時宗寺院を寺町に、商売を行っていた商人たちに圧倒的信仰を集めていた法華宗寺院を安居院の寺内に集めたのです


現在も寺
内地区には妙顕寺、妙覚寺をはじめ、本法寺、妙蓮寺、本隆寺など日蓮宗16本山の約半数がこの地区にあります。本阿弥光悦や長谷川等伯など名だたる芸術家もみな日蓮宗に帰依していました。

さて、寺之内通りを東に、妙蓮寺にやってきました。

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妙蓮寺
は、永仁2(1294)年、造り酒屋の柳屋仲興(やなぎやなかおき)が日像上人に帰依して自邸を寺に改め、柳寺と称したのが始まりとされる日蓮宗の本山。

山号を卯木山(ぼうもくさん・うぼくさん)。柳の文字を木と卯に分解しての命名です。

仲興氏は京都の土蔵や酒屋といった富裕層のなかでも有数のお金持ち。当時、銘酒「柳酒」は京都一と言われました。

門をくぐると美しい袴腰の鐘楼。芙蓉の花が咲いていてきれいです!

妙蓮寺2.JPG

妙蓮寺3.JPG

宗祖の命日にあたる法会を御会式(おえしき)と言いますが、その日蓮上人の命日1013日頃から咲き始める不思議な
御会式桜、室町時代から知られた妙蓮寺椿などをご紹介します。


妙蓮寺椿.JPG
妙蓮寺椿 蕾をつけて花ももうすぐ咲きそうです。


妙蓮寺向かいの
灰屋の図子へ。この中に足抜き地蔵が祀られています。


灰屋図子
灰屋紹益を代表とする灰屋一族が住まいしたところ。


そこに
現在も鎮座する地蔵が「足抜き地蔵」。

この地蔵はもと島原の大門脇に鎮座し、島原から足抜けしようとする女郎たちを必ず足止めするとして「足止め地蔵」と呼ばれていましたが、西陣織の若い職人と恋に落ちた女郎が、この地蔵さえいなければ逃げることができるかもしれないと、ある日この地蔵を背負って大門をくぐり、逃げ出し、ここで急に重くなり、重さに耐えられなくなって地蔵を降ろしたのがこの灰屋図子。めでたく恋しい職人と出会い、幸せに添い遂げることができたといいます。以後、この地蔵は「足抜き地蔵」と呼ばれています

足抜き地蔵.JPG


さて、大宮通りにもどり、南へ。


紋屋図子
(もんやのずし)にやってきました。

智恵光院通から入って行き止まりとなっていたのを、天正十五年(1587)、この図子に住んだ御寮織物司の井関七右衛門宗鱗が私財をもって図子の東を塞いでいた家屋を買い取り、大宮通まで行き抜けにしました
以来この功績を称えて井関宗鱗の屋号「紋屋」の名をとって「紋屋図子」と改称され
ました

紋屋図子.JPG

紋屋図子 (2).JPG


徳川五代将軍綱吉の生母・
桂昌院(けいしょういん)の生家と伝わるを通り、


いよいよ観世水(かんぜみず)まで来ました

現・西陣中央小学校の敷地の隅に飛び地として残るのが観世稲荷と観世井です

ここは能楽宗家の観世家が足利義満から拝領した屋敷地でしたが、西陣焼けのあと稲荷社と井戸だけが残されました。 

観世水の井戸は名水としても知られましたが、地下水の合流点であったために井戸の底にはいつも渦が巻いていたことから、この波紋を観世水といい、能楽観世流の紋様となりました。
井戸は格子で見られなくなっていますが稲荷は見ることができました。

観世井戸・観世稲荷.JPG
                 
 

これで今日の紫野・西陣散歩は無事終了となりました。

時間をだいぶオーバーしてしまいました。


伝承のとおりに姿をとどめるものは少なくても、地名や町名にその名を残されて歴史の片鱗を垣間見ることができたものはたくさんありました。
歩いてみると、知識が体験となってくれるのですね。その場に立つことの大切さを学びました。

爽やかな風とともに空はすっかり秋の空になっています。

秋の空.JPG


ご案内を終えて─

ご参加いただいた皆さま、お越しいただき本当に有難うございました。

不十分な点が多々ありましたこと、なにとぞご容赦ください。

また天候による日程の変更で、今回ご参加いただけなかった方々に深くお詫び申し上げます。

最後に、貴重な資料を提供くださり、さまざまの御教示をいただきました堤先生、有難うございました!

            
             京都・清遊の会 主宰 中川祐子

 

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2011年07月14日

祇園祭講座を終えて

京都・清遊の会では堤講師による世界遺産講座「祇園祭 山鉾巡行」の講座が先月25日に東京で、3日に京都で行われました。


同じテーマでも堤講師の講座は講座ごとに内容が違ってきます。
25日も3日も、3時間以上をかけ、祇園祭を巡ってさまざまな内容が縦横無尽に駆け巡りました。

東京での話は祗園社と稲荷社、そして稲荷社と藤森社の関係をユニークな「土地返しや」の神事にのせて、
京都では祗園信仰、とくにスサノオ信仰の話が記紀神話の秘密にのせて、それぞれ熱く語られました。

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                                             東京講座(於 きゅりあん) 

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                                    京都講座(於 京都北文化会館)

講座が始まると間もなく祇園祭というより、祗園祭そのものの根幹にかかわる歴史を話し始める堤講師。

前半は、二大御霊会といわれた祇園会と稲荷祭を対比させてのお話から始まりました。
稲荷社と東寺、祗園社と延暦寺の関係はこの講座のポイントでした。
そして八坂神社の成り立ちから、応仁・文明の乱をはさんで祇園祭が復興する過程。


後半は現在の祇園祭について。
神事における久世駒形稚児、行事における鉾稚児の話からはじまり、山鉾の見方、楽しみ方が実際の祭の進行に沿って面白く話されました。


堤講師はいつも言われます。

一つの社寺や行事などテーマそのものについてだけでなく、そのバックグラウンドを知ることで、さまざまな歴史上の関わりが見えてくると。
それらはいつか互いに結びついて歴史の太くて広い裾野に気づく。

そしてさらに学び、知識を深めてゆくことでその上に立つ高い塔が見えてくる。その高みから見ると全体の姿がわかる。
京都の歴史や文化を理解するとはそういうことなのだと。
狭い裾野の上に作られた塔は高そうに見えても脆い。高いところから見はらすために、広い裾野をもつことが大事だと。


そして現地に行って自分の目で見ることの大切さ。
覚えたことは忘れるかもしれないけれど、感じたことは絶対に残ると。


京都・清遊の会の講座はしばらくお休みさせていただきますが、
夏以降には堤講師がつれづれにいろいろなことを皆様に話しかけてくれるようです。

カテゴリーにちょっと変わった名前の項目がでてきたら読んでみてください。
堤講師のプレッシャーになるといけませんからあまり期待しないで(?)ゆるゆる待つことに致しましょう。

祇園祭においでの折にはくれぐれも暑さに気をつけられますように。そして存分にお楽しみください!

                        

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2011年06月07日

京都・清遊の会 活動報告 五月 その2

京都・世界遺産現地案内


比叡山延暦寺 横川

 
  快晴の五月四日、堤講師の案内でかねてより愉しみにしていた比叡山延暦寺を訪ねました。今回の目的は横川と西塔です。

 京都駅に集合し、バスにてお山を目指しましたが、大型連休の真っ最中、バスは超満員で座れない方も出てしまいました。たいへん申し訳なかったと反省しきりです。
 しかし大型連休の観光地の恐ろしさを本当に知るのはこの後なのでした。

 小一時間ほどで延暦寺バスセンター(東塔)に到着、すぐに連絡したシャトルバスで横川へ。横川は東塔からもっとも離れたエリアで、円仁によって開かれ、元三大師良源によって発展しました。ここは道元、また日蓮が修行を行い、新仏教を開教する契機となった地としても有名です。

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横川の入り口で説明を聞きます。期待大!


 一同はまず、龍ヶ池弁才天にて良源の怪異譚を聞き、前にある如法水で良源の弟子、恵心僧都源信が慶滋保胤らとともに行った如法写経の話を聞きました。

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良源が法力で鎮めた大蛇を祀る龍ヶ池弁才天にて

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写真下に写る木屋根の中が如法水です。


 道行く人々は、壊れかけた木枠の前でいったい何を話してるのだろう、と不審気に眺めていきます。堤講師の説明は、いつもそうですが、目の前に現れるものすべてについて行われます。単なる観光ガイドとは次元が違うのです。

 その後、横川中堂と呼ばれる首楞厳院へ。横川の本堂です。
 円仁が入唐求法に赴いたとき、乗船した遣唐船を象ったものといわれ、上空から見ると船底の形をしているそうです。そういえば内部も一段低くなり船室を思わせます。


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横川中堂 堂々たる建物ですが、残念ながらコンクリート造。


  信長の焼き討ちで焼失したのち、秀吉によって再建され、さらに淀殿によって改装されたこの建物が、数多くの歴史を秘めながら、現在コンクリート造となっていることの功罪が話されました。とても興味深いお話でした。木造りの文化と日本の風土、その風土が生んだ日本仏教、その仏教のために建てられた寺院。日本文化を貫く一本の棒、とても重い話です。

 本堂を出て、正面に祀られる赤山宮と円仁、そして横にある一念寺跡で、円仁がなぜこの横川に一大法城を開いたか、義真との確執によるそのいきさつを聞きました。こんな話が聞けるのも清遊の会ならではの案内ですね。


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一念とは虚子の小説「風流懺法」に登場する僧侶の名前です。


 高浜虚子の逆修塔、秘法館跡、恵心院、そして鐘楼と含蓄のある興味深い話の連続でしたが、ここでは割愛します。とにかくすべての建物で解説があるのですから、なかなか先に進みませんね(笑)。


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高浜虚子の逆修塔 「清浄な月を見にけり峰の寺」の句碑が。

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横川の鐘楼前で。面白いお話でした。


 山の霊気を感じながら、一行は元三大師堂へと着きました。叡山三大地獄の一つ、看経地獄の拠点です。ここの本尊は元三大師良源の御影そのもの。いつも座って止観を続けていた良源の姿が壁に焼きつき、その姿を写し取った像が本尊となったと。とてつもない話ですが、ここに座るとなんだかその通りのような不思議な感覚を覚えます。


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元三大師堂。良源の魂が今も生きて充満しています。


 ここはおみくじの元祖となった元三大師を慕い、今でも進路判断が行われています。うかがったときもお一人おられましたね。
 お札で有名な元三大師。皆さん思い思いにお札や数珠を購なわれました。

 四季講堂を出た一行は叡山三大魔所の一つ、元三大師御廟へ。


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御廟に至る山道を歩く参加者。気分は回峰行者です。


 昼なお暗く、別格扱いされた聖域です。叡山には珍しい数々の怪異譚を生んだ良源の墓所。まさに肌が粟立つ思いです。石柵に囲まれてひっそりと立つ横川式墓所。その横にはブナの巨木が。暁闇のなか、ここを訪れる回峰行者は必ず不思議な気配を感じるという。さもありなんと思わせるだけの霊域でした。


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三大魔所の一つ。元三大師御廟に着きました。怖いもの見たさにワクワクドキドキ。

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これが元三大師のお墓。千年このままです。思わずゾクッと。

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お墓を守るようにそびえるブナの巨木。雰囲気ありすぎ!


 その後、根本如法塔にてここから出土した国宝の経箱や経筒の話を聞きました。上東門院自ら埋納した経箱がそのまま出土したのですから、本当に驚くほかありません。
 現在の塔は篤志家山口玄洞の寄進です。


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根本如法塔へ。驚きの出土品が発掘されました。


 横川を後にして峰道レストランで昼食休憩をとの予定でしたが、さまざまな障害があり、昼食も、そしてその後訪れるつもりだった西塔も行けずに終わりました。
 大変申し訳ないことでした。予定通りに回れなかったことは幾重にもお詫び致します。いずれまた必ず埋め合わせをと、講師も約束してくれましたし、一人だけバスに積み残されて早速罰を受けた人もいました(大笑)。
 皆さま、どうかご海容下さいませ。


坂本へ


 西塔をあきらめた一行は、坂本の町を散策し、最澄が生まれた生源寺を訪れようとの講師の提案により、ケーブルで麓の坂本へ降りました。


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穴生積の石垣に囲まれた素晴らしい坂本の街道。


 風情満点の町並みを歩きながら、日吉大社と秀吉や、穴生積みの石垣の話、天台真盛宗の総本山西教寺の話などを聞きつつ、生源寺へ。


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最澄生誕の地 生源寺。

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本堂にてご住職のお話を聞きました。お坊様はみな話し好き。


 伝教大師最澄の生誕地が寺となったもので、本堂に上がると、ご住職がお出ましになり、有難いお話を聞くことができました。


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最澄が産湯に使った井戸だそうです。


 お寺を出た人々は、有名なおそば屋さんの話や、最澄によってもたらされた日本最古の茶園という「日吉茶園」を前に、飲茶の歴史にしばし耳と傾けたのち、解散となりました。


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最澄により請来された日本最古の茶園。


   想定外の探訪となった叡山行でしたが、それはそれでお楽しみ頂けたのではないかと思っています。

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2011年06月05日

京都・清遊の会 活動報告 五月

五月一日 和菓子の会と無隣庵庭園・南禅寺界隈散策

五月一日、南禅寺近くの無鄰庵で和菓子の会を催しました。
無鄰庵は、もと明治の元勲・山県有朋の別荘として一般に公開されています。
和菓子の会は二階の広間で、講師の井上由理子さんから、「葵祭の神饌」と「緑の和菓子」のお話をうかがい、その後、堤講師の案内で無鄰庵の庭園や南禅寺界隈を散策しました。
前日までの雨で木々や苔はたっぷりと水を含み、いきいきした無鄰庵のお庭です。
みずみずしい新緑に囲まれた建物のなかでお話を聴き、和菓子をいただき、また庭園を散策し、楽しい1日となりました


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画像を見ながらの解説。興味津々です。

まず井上先生の講義は葵祭のお話から始まり、上賀茂神社、下鴨神社の神饌について解説していただきました。

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葵祭 華やかな装いの斎王代
 

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下鴨神社 神饌の調進がされる大炊殿
 

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下鴨神社 神饌


当日は上賀茂神社の神饌「はぜ」に似せて先生自らが調製された「はぜ」や下鴨神社の神饌「餅(まがり)」のレシピで調製された「唐菓子」、同じく下鴨神社の神饌に近い「洲浜」をご持参いただき、一同で味見をさせていただきました。


飾り粽 川端道喜.JPG

「飾り粽」 川端道喜

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洲浜」 植村義次

たとえば「粽」や「洲浜」は私たちがいま和菓子として食しているもの。それが画像を見て説明していただくと神饌に由来していることが…。驚きです!
和菓子の歴史が遠い時代からいまにつながってきている、その一端を知ることができました。

次は、この時期に登場する「緑」にちなんだ和菓子を。

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「柳」

「翠」 千本玉寿軒.JPG

「翠」 千本玉寿軒

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「ほととぎす 水」
 

緑のお干菓子 有平糖 味噌せんべい 州浜など.JPG

緑の干菓子いろいろ 
有平糖、みそせんべい、洲浜など


季節の風景が凝縮されてお菓子になっている、そんな感じがしますね。
さて、いよいよ今日いただく和菓子です。
なんだろうと思いきや、井上先生おすすめのこの時期しか味わえないえんどう豆のきんとんです。
はんなりという表現がぴったりの優しい色。

えんどう豆のきんとん[岩根のつつじ」.JPG

えんどう豆のきんとん「岩根のつつじ」 聚洸

きんとんのバリエーション 向こう側は「卯の花」.JPG

きんとんのバリエーション 
白いそぼろをのせると銘は「卯の花」に。


こうした意匠や銘からは、自然を和菓子に映した日本人の知性や想像力の豊かさを感じます。溶けるようにやわらかくてきめ細やかなお味!美味しくいただきました。
和菓子はこんなに小さいけれど、歴史に根ざした和菓子の世界は深くて広いのですね。魅力はつきません。



「葵祭と新緑の和菓子」の講義に続いて、堤講師による無鄰菴見学と南禅寺界隈散策が行われました。
 
無鄰菴母屋の二階で山県有朋と無鄰菴、植治と無鄰菴庭園についてのお話を聞きました。

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二階座敷からみた無鄰菴庭園
 


「隣なき世を隠れ家のうれしきは月と虫とに相宿りして」
 


「無鄰菴」命名の由来となった山県の歌を教えていただき、この名前は山県の出身地山口県吉田に造られた最初の別荘に由来しており、この別荘が三つ目の「無鄰菴」であること。
 
世に名高い「無鄰菴会議」が行われた邸内の洋館は、山県の気に入らず、植栽で隠してしまう計画であったこと。しかしこの洋館こそ、植治こと七代目小川治兵衛の庭造りに決定的な指針を与えた二人の人物、山県有朋と伊集院兼常に植治を引き合わせた建物であること。
 

二階でお話を聞くうち、降りしきっていた雨があがり、天然の打ち水に満たされた緑がなんとも素晴らしい風情です。
 
施主の位置から庭を造る、という植治が庭造りの基本を教わった一階主室床の間から庭を見た一行は、庭園にでました。
 

野芝と二筋の流れ、そして東山の借景という、この庭の主題に留意しつつ、庭に置かれた石がすべて伏せてあること、醍醐の花見で切り出そうとしてできなかった「秀吉の断念石」と呼ばれる巨石がここにあること、下段、中段、上段と地勢に応じた高さの庭が、絶妙に下から見えず、歩いて初めて得心できること、琵琶湖疏水から引いた三段の滝が左、右、左と振り分けてあり、これも醍醐三宝院庭園と共通すること、そして滝や流れに仕掛けられた音の秘密など、実際に見ながらの説明だけに説得力がありました。

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秀吉の断念石

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左右に振り分けた三段の滝組
 


その後、庭の奥から打ち返して母屋を見る、堤講師お得意の振り返って見る景色に、途中で切り落とされた母屋の屋根などの秘密を聞き、明治天皇から下賜された若松のいきさつ、利休堂をつぶして眺望台とした燕庵写しの茶室、歴史の生き証人たる洋館などを巡りながらとても興味深い話の数々をうかがい、無鄰菴をあとにしました。

南禅寺界隈散策
 
無鄰菴を後にした一行は、すぐ南に見える南禅寺の総門の話、隣の瓢亭の歴史、そしていま無鄰菴が建っている場所が、もとは著名な豆腐茶屋、丹後屋の南禅寺参道に沿って設けられた三つの茶店、口丹、中丹、奥丹の口丹であったことなど、驚きの話を聞きます。
現在唯一残る湯豆腐の名店「奥丹」は明治に復活したものだったのですね。
 
南禅寺の参道を西にそれ、上田秋成の墓がある西福寺へ。


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西福寺門前で秋成の話を。堤ワールド炸裂です。
 


無腸と号した秋成。妻・胡蓮尼を亡くし、さらに両眼の明かりさえ無くした秋成に自殺を思いとどまらせたのが当寺の玄門和尚であったこと。
 
江戸期に文筆をもって大輪の花を咲かせた秋成の話は、堤講師ならではの文芸談義となって、皆、堤ワールドに惹き込まれていきます。
 

その後、湯豆腐で有名な順正へ。
 
奥丹にも驚きましたが、この店もまた由緒正しき歴史の舞台だったのですね。
 
新宮涼庭。この聞きなれない医者の旧蹟は、京都のいや日本の医学教育史上記念すべき場所であること、また扁額は京都所司代間部詮勝の筆とも知りました。
 
奥丹にせよ、順正にせよ、秘められた歴史の由緒に本当に驚きの連続でした。


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南禅寺勅使門 重要文化財です。妻部の笈形に特徴が。
 


一行は何度も南禅寺を訪れながら、ほとんどその存在すら気づかなかった勅使門の見所を教わり、楽しみにしていた慈氏院の立ち姿の達磨さんが、時間切れで拝観できずがっかりしながら、野村碧雲荘脇の素敵な道を、疏水に沿って散歩しながら、本当に楽しいひと時を過ごしたことでした。

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野村碧雲荘横の道を歩きました。とてもよい風情でした。
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2011年05月21日

京都・清遊の会 活動報告 四月


京都・清遊の会は四月末から五月初めにかけて立て続けに講座や現地案内を行いました。
 4月23日 おもしろ講座 法然上人(座学・現地案内)
 4月29日 世界遺産現地案内 金閣寺
 5月1日  和菓子の会と南禅寺界隈散策
 5月4日  世界遺産現地案内 延暦寺
 5月8日  東京・世界遺産講座 醍醐寺

この間隙を縫って堤講師は7日に京都銀行で「葵祭」の講義を行われるなど、まさに八面六臂のご活躍でした。
以下、諸行事の報告を簡潔にご紹介します。

4月23日 おもしろ講座と現地案内

4月のおもしろ講座は京都・スーパースター列伝の二回目。
テーマは「法然上人」でした。
今年、八百年遠忌を迎えた浄土宗の宗祖です。

私たちは法然上人と呼び習わしていますが、 
自分では「法然」と書いたことはないそう。
意外ですね。
名は最初の師・源光の源、
三番目の師・叡空の空からいただいた「源空」。
「法然」は房名なのです。

堤講師のお話は、「大原問答」から始まりました。

法然上人を語るのに欠かせない京都・大原の地がどんな歴史をもつのか、
「大原三寂」といわれる藤原三兄弟の話。
あの大歌人藤原定家の意外な出自に驚きです。

絵図 大原問答4.JPG 
                 法然上人行状絵伝 大原問答


講義は大原問答から、法然の生涯へ。

IMG_4119.JPG 
パワーポイントを使った解説はビジュアルで分かりやすいです。


法然の父は美作の押領使、母は秦氏の一族。
押領使の説明も受けました。
なるほど! 現在の「横領」の意味につながってくるのですね。

法然上人縁起絵巻の場面を追って法然の生涯が語られました。

誕生寺 御影堂 重文.jpg 
       法然生誕の地が寺となった岡山の誕生寺本堂。
                    熊谷直実による建立です。

この「悪人」としか規定しようのない父と、
その財力ゆえに人の謗りを受けることの多かった母の血を受けた法然の出生。

絵図 父、臨終.jpg 
    法然の父 臨終の場面 醍醐本は内容が異なります。


後世に定着する「聖僧」のイメージを背負って生きる法然と、
自らの「悪の血」を言えぬ「哀しみ」。

これこそが専修念仏、悪人正機、女人往生という日本仏教の革命を興した原点との解説。
難しいながらに納得でき、いつしか講師の解説に引き込まれてしまいます。

日頃は気にも留めていなかった座像の阿弥陀如来と立像の阿弥陀如来にこんな違いがあったなんて。
いまさらながら法然上人の存在の大きさを感じます。

それにしても私たちが親鸞聖人の言葉として記憶している
「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」の有名なフレーズ。
実は法然上人の言葉だったなんて! 眼からウロコとはこのこと。

それに法然と親鸞の「上人」と「聖人」の違い。
次回親鸞の回で詳しく解説があるとのこと。今から楽しみでなりません。

講師の話は法然の生涯から、開教、迫害、そして流罪と展開します。

絵図 開宗 吉水2.JPG 
       浄土宗開教 雲霞の如く聞法の衆が訪れました。


法然ゆかりの地、さらに浄土宗四ヶ本山の紹介、
蓮生房(れんせいぼう)熊谷直実秘話……。

熊谷直実1.jpg 
西には浄土があると西にお尻を向けずに東上した直実
思わず噴き出すような解説も具体例があると効果的。


厚みのある、広範な視点からの解説に脱帽です。

そして極めつけ
法然上人の肖像画を見ながらのエピソード解説は最高でしたね。

「披講の御影」「鏡の御影」「足曳の御影」「張子の御影」と
本当に興味深い紹介の連続。
「法然頭」なんてまったく知りませんでした(笑)。

鏡の御影 金戒光明寺2.JPG 
              頭頂部が窪んだ法然頭 なるほど!

披講の御影 複写4.JPG 
   披講の御影 毛髪を残し、無精ひげ姿の真実とは!?


最後は少し駆け足になりましたが、
式子内親王と法然の消息、

玉桂寺の源智ゆかりの安阿弥様如来像などなど。

玉桂寺 本堂.jpg 
法然上人一周忌の結願阿弥陀如来を伝えた玉桂寺本堂

玉桂寺 阿弥陀如来像 重文 伝快慶(快慶弟子作).jpg 
現在は浄土宗の寺宝となった
玉桂寺伝世の阿弥陀如来像


本当にもっともっと聞いていたかった!
時間切れになったのが残念でなりません。

午後 現地案内 法然寺


いつもながらの濃すぎる(?)内容に
時間の経つのをすっかり忘れて聞き入った午前の講義を終え、
一同は昼食を済ませて午後の現地案内へと向かいました。

今回の訪問先は上人の名前を冠したお寺「法然寺」です。

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            法然寺本堂 法然院とは違うお寺です!


今は嵯峨に居を移しましたが、
その名は今も「元法然寺町」の町名に残る
上人と熊谷直実のゆかりを示す由緒ある寺院。
「法然上人二十五霊場」の札所でもあります。

ここで一同はとてもとてもお話好きなご住職様の、
熱のこもった楽しいご説明を拝聴しました。

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あえて繰り返します。とてもとてもお話好きのご住職でした。


ご本尊は法然上人が自ら刻み、
愛弟子蓮生に与えた上人五十三歳の像。
御像を覆うスクリーンが電動で開閉する仕掛けには一同ビックリ!

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       法然上人自刻の自像 53歳の時のお姿だそう。


さらにご本尊を荘厳する釣灯籠は
直実着用の鎧で作られており、

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           お厨子の前に吊るされた灯籠がそうです。


本堂横には上人の爪が埋納された御廟もあります。

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    京都市内に四ヶ所 法然上人の御廟があるそうです。


こんなお寺があったなんて今の今まで知りませんでした。

お伺いしたときには降っていた雨も、失礼する頃にはすっかり上がり、
一同は直実ゆかりの向かい鳩の御紋が刻まれた瓦や門を拝見しながらお寺を後にしました。

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           熊谷直実ゆかりの鳩が随所にありました。


今回の法然上人講座に相応しいお寺を紹介して頂けた講師に感謝です。



世界遺産現地案内 金閣寺


続いて4月29日は金閣寺の現地案内会を行いました。

大型連休が始まった初日。
しかも訪問先は京都屈指の観光地。

相当な人手の中での案内にかなりの混乱が予想されましたが、
東日本大震災の風評ゆえか、平素は日本人以上に多い
外国人観光客がやはり少ないようで
思ったほどの混乱もなく、要所、要所で講師の解説を堪能できました。

当日は晴天。
素晴らしい新緑の中、吹き渡る薫風が爽やかな、まさに好日。
最高の観光日和となりました。

青空を背景に建つ金閣のなんと見事なこと!

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              絶好のロケーションでの金閣の雄姿


一同は鏡湖池を前景にした金閣の雄姿を見ながら説明を聞きました。

まばゆく輝く金は五倍の厚さをもつ五倍箔。
その下で金を支える漆は純国産、最高の品質を誇る浄法寺漆。
今回の震災での被害が心配されます。

こうした最高品質の素材を使い、最高の技術で仕上げられた金閣。

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               人の想いの大切さを説かれる講師


しかし、その美しさを維持するのは人の思いと人の手なのです。
毎朝九時に開門する金閣寺。
その一時間前から、毎日金閣に上がり
金のほこりをとり、金の状態を確認する人がいるそうです。
どんな悪天候の日でも、
欠かさず二十年以上続けられているそうです。
目の前の金の輝きと相俟って、堤講師の話は胸を打ちます。

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日々続けられるメンテナンスあってこその黄金の輝きです。


空の青を受けて静かに金を映す鏡の池。
そこに点在する島々や巨岩の話もまた興味深いものでした。

なぜ、銀閣寺の錦鏡池にはある大内石がないのか?
三尊石や九山八海石の秘密などなど
そして金閣一層に安置される義満の像はなぜ天台の僧服なのか、
圧巻の解説が続きます。

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            金閣の東側にある陸舟の松 名松です。


そして苑路に沿って歩きながら、かつて書院と結ばれていた渡り廊下や
明使を接待した天鏡閣の場所、逆光の中でひときわ映える見返り金閣、
西園寺家時代の名残を示す安民沢の逸話など話題は尽きません。

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     西園寺家時代からの鎮守社 春日社を遷した榊雲

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  龍門の滝の鯉魚石 定家が見た滝は果たしてこれか?


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   豊かな水を湛えた安民沢 数々の雨乞いの舞台です。


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            見返り金閣 ひときわ映える視点です。


金閣寺で最も高い位置にある茶室・夕佳亭では、茶道の歴史から
数寄屋建築の意匠、鴬宿梅の故事、犬王道阿弥の晴舞台と世阿弥の転落……
とどまるところを知らないかのように話は弾みます。

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    さすがお茶に造詣の深い講師 解説も一味違います。

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つい見逃し勝ちな側面の意匠 丸、三角、四角の禅問答です


しばしの休憩を挟み、不動堂へ。
現在の鹿苑寺境内ではもっとも古い建物です。
かつて「洛中洛外図」に、金閣とここのみが描かれたように
弘法大師ゆかりの石不動としてとても知られた名所でした。

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                    境内最古の建物 不動堂。
    用意された不動明王の写真がわかりやすかったです。


長い石段を降りた一行は、普段ほとんど見ることのない
鹿苑寺の南側を境域に沿って歩きました。

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金閣寺南側での解説 氷室道とも相俟った楽しいお話でした。


義満が一世一代の盛事、後小松天皇行幸時の正門の位置や
清遊の会ならではの秘密の金閣(笑)を見て
氷室道を歩き、氷室にまつわる話をうかがいました。


途中、いまだ町名に残る金閣寺の総門の話を聞き、
裏門から安産祈願の神社・わら天神に入りました。

敷地神社というのが正式な名称ですが、
この「敷地」の意味など、全然知りませんでした。

さらに、
祭神の木花咲耶姫とその親神・大山祇神、
そして姉・磐長姫の悲話
今に生きる神話の醍醐味を堪能しました。

それに本殿の妻飾りのきれいなこと!
思わず一同写真撮影会となりました。

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     見事な流造の本殿 眼を瞠る妻飾りの美しさを堪能

しかし、
本殿の祭神より大事な神様が隣の六勝神社におられること。
この六勝神社と境内参道を通じて正対する古墳の意味。
付近にある六請神社との関係など。
初めて聞く話の連続でしたが、とても面白く、興味深いものでした。

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   大北山の地霊神を祀る六勝神社拝殿 驚きの秘密が!


晴天に恵まれた絶好の環境での
金閣寺とわら天神の案内。
世界遺産の魅力と
京都の地霊神の秘密を堪能できた一日でした。

五月の行事報告は追ってアップします。
どうぞ、お楽しみに。


posted by 清遊 at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 活動報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする